『ゲド戦記』を観終わったあと「面白かったね」と言って映画館を出た僕の全部関係ないことについて

エドワードゴーリーの『敬虔な幼子』という絵本、知っている人は知っていると思う。
神の教えを純粋に信じ、正しく清廉で在ろうとする幼子に対してあっても、運命は圧倒的な冷たさと重量を持って唐突かつ無慈悲に振り下ろされる、というお話。
それは初めから、神という存在が誰のためにでもあるのと同時に、誰のためにすらないということを、厳しい結末で教えてくれるようであるのだが、作者ゴーリーはその神云々について特段の意志があって教えようとはしていないように自分は捉えている。
それはシンプルに、目を瞑って撃ち放たれた銃弾の行き先まで責任を負わない自由。
主人公であるヘンリー・クランプ坊やの
『書物に目を通しては、神の名が軽々しく触れられているたびに、念入りに塗り潰した』
という場面。
自らの意に沿わぬ神の登場は、名前ごと塗りつぶさないと気が済まないという、歪んだ独善が生む身勝手さ。本当は神なんて「全部関係ない」ことが表れているようだ。
自分はこの「全部関係ない」ということを、ゴーリーの『敬虔な幼子』から読み取って、ひとつ自分の引き出しにしまっては、たまに取り出して眺めている。

宮崎吾朗監督作『ゲド戦記』について、どう感想を持ったか?
という話をすると、大抵の人が「ひどい」と返してくる。ある人からは「『ゲド戦記』を観終わって映画館から出てくる人たちの顔が一様に皆死んでいた、あれは「つまらなさというテロ」だ」などとも聞いて、笑ってしまったことがあった。自身がこれは面白くないと決めると、映画館を出てきたお客さんたちの、(このあと恋人とどう過ごすか…)(夕飯の材料買い忘れた…)(トイレ行きたい…)なんて、おおよそ映画とまるで関係のないことを考えた末に表面化した少々神妙な面持ちも「最悪な映画を見た」という感想への共感に替えられてしまうことがある。
本当は、「全部関係ない」はずなのだ。

自分が子供の頃から比べて、レビューという形で評価が明文化されるようになった、その情報をもとにして得をすることもたまにある。
しかし、実際は「全部関係ない」はずなのだ。

人それぞれが抱く、何かに対する感情は全部関係ない。評価社会に身を置きつつ、割りきれない判断を下されることがあっても、全部関係ない。
ゲド戦記』の小説原作は素晴らしい、好きな小説だ。同様に映画の『ゲド戦記』も好きだった。「面白かった」と言って気持ちよく外へ出た。前評判、後評判、それを見たからとしてなんとするのか、「面白かったよ!」と、つまらなかったと言う人と喧嘩する必要も全くない。
ヘンリー・クランプ坊やは急に訪れた自らの運命を悲しんだり、神を憎んだりは、きっとしない。彼の好みの基準で、彼がしたかった範囲の神の信じ方をすることは、幸せなことだったのだと解釈している。
自分が好きでたまらないもの、バカにされたら腹のたつもの、それが本質、自分にすら全部関係なかったら…一瞬考えて、寂しくなるけど、そこを抜けると少し楽になる。ただただ好きであること、どうせ関係ない、好きであることだけ、信じたい想いだけに帰結していく。

まあなんでもいいかと、そう思えてくる。なんでもいいかと思うこの感情ですら、実に全部が関係ない。