シャンプーしているときひとりで目をつむると、誰かが背中を撫でる気がするけど、それが泡だと言い切れない

寝室に引き戸タイプのクローゼットがある。
布団や大型の荷物を入れておくのにおあつらえ向きな、ちょうどいいサイズ感のクローゼットだ。
そこには何も入っていない。空っぽだ。
今日息子たちにせがまれて、かくれんぼをした際、ついにクローゼットの存在を認知され、息子たちにその中に入られてしまった。
僕も入るように促され、入った。
 
クローゼットは、相変わらず空っぽであるが、もう入っている。

人が入った事実が入っている

クローゼットの中の隙間から、外に視線を送った視線の事実が伸びている
クローゼットの中から、外に向けてノックした音の事実が耳に残っている
クローゼットの中に人が入ったときの違和感の事実が部屋の温度に残っている 
わかるかな
これが闇に物語を付与したくなる体質のやっかいな症状の一部だ
 
近所に高齢の親子が二人暮らししている二階建ての一軒家があって、ほぼ確実に毎日、15センチほど開いている窓があるのだが(飼い猫の通り路のようだ)
その隙間がどんなに明るい昼だろうとすごい暗くて、日が落ちるとどこよりも早く、かの部屋に闇が訪れているのが見てとれる
だから何かというと、別に何もない。当然のように、そこから誰も覗いてはいない。
ただ僕は覗いていて欲しいんだと思う。ジッ 、 、 と

もしそんな場面にもし出くわしてしまったら、普通に(うわこわ)と思うだけなんだろうけど
わかるかな
これも闇に物語を付与したくなる体質のやっかいな症状の一部だ
 
電車の車窓から景色を見た時、
屋根から屋根に飛び移る忍者のようなものを浮かべる思考と親戚みたいなものと思っているが
ちょっと違うのかもしれない。

 
今日は寝室のクローゼットの中の闇に物語が付与された記念日だ。
寝る間にいくつものパターンを想像して、ひとり憂思を噛みしめる。

シャンプーしているときひとりで目をつむると、
誰かが背中を つぅっと撫でるような気がするけれど
それが誰も泡やお湯だと言い切れないなんて、可笑しいね
 

育児日記だと思う

保育の世界では「おしっことうんちは子どもが自分自身でできる、初めての親へのプレゼントである」と言われているらしい。
トイレトレーニングにおける何度もの失敗と、待望の初回の成功で涙腺を緩ましてきた親御さんたちには、きっとこれが決して大袈裟でないことがわかると思う。
初めてのトイレでのうんちに対峙した時の激闘、終わったあと長男と僕は、アポロ対ロッキーの15Round終了ゴング後の混沌のさなか抱き合い、アイラブユーと叫び続けるエイドリアンとロッキーみたいだった。

今、自らが普通とする生活とは、いずれもありとあらゆる初めてのことを成し遂げてモノにしてきた、もともとできなかったことの集合体だ。
うんちも含め、一日を構成する一挙一動の行為ひとつひとつが、ゼロから習得してきたことだなんて、信じられないほど膨大な情報じゃなかろうか。
朝起きてから夜寝るまでの、全ての行為を文字に起こしたとしたら一体何文字になるか、おそらく気が遠くなるような工程数だ。

日々成長していく自分の子供をみていると、当たり前のことなのだけど、本当に人はゼロベースなんだということに気付ける。
生きていくための最低限のことすら、それが最低限であることすら知らずに、できるようになっていく過程と有り様はまさに記憶そのものが人間になっていくようでもある。
僕はたまたま彼らの親にならせてもらい、彼らに生まれてはじめてを経験させてあげさせてもらい、僭越ながらまるで神様にでもなったかのように全知全能役を演じている。
すごいことを目の当たりにさせてもらっている。僕が決めたサイテイゲンを彼らにとってのヒトトシテの第一歩としてデザインしているわけだ。

この「はじめて」という不可逆的な一筆目に想いを馳せ、「はじめて」に二度目はないことの馬鹿みたいな尊さに胸ぐらをつかまれる。

はじめて口にした美味しいものをもう一度食べたいと自覚することや、最初に流した涙をそれがなんのための涙であるか自覚することは、風がどこから発生するのかだったり、振り始めた雨の一滴目がどこに降り落ちたのかだったりを知ることに等しく、奇跡みたいな領域だ。

はじめてを知ったときに、表裏一体であるおしまいの存在にはなかなか気づけない幼い息子たちも、まさか初めてを経て終わりがあるなんて想像だにしないだろう。
いつか知ることになるおしまいの存在はきっと眠れないくらい怖いかもしれないが、怖気づきながら僕もまだまだ、はじめてを重ねていることを伝えつつ、なんて言ってやれるだろうか。

これから重ねていくはじめては、きっとクソみたいなことも数え切れないほどあるということ。
でもきみたちが幼い頃見せてくれたはじめてのうんちも含めて、素敵なはじめても沢山あり、それをわけてもらった僕が何度嬉し涙をこぼしたかということ。

あわせてよくばりに、はじめてに二度目はないことの馬鹿みたいな尊さについて伝えられたらいいなと、

昨日長男がはじめてトイレでした立派なうんちのにおいを反芻しながら、ぼんやり思う

『ゲド戦記』を観終わったあと「面白かったね」と言って映画館を出た僕の全部関係ないことについて

エドワードゴーリーの『敬虔な幼子』という絵本、知っている人は知っていると思う。
神の教えを純粋に信じ、正しく清廉で在ろうとする幼子に対してあっても、運命は圧倒的な冷たさと重量を持って唐突かつ無慈悲に振り下ろされる、というお話。
それは初めから、神という存在が誰のためにでもあるのと同時に、誰のためにすらないということを、厳しい結末で教えてくれるようであるのだが、作者ゴーリーはその神云々について特段の意志があって教えようとはしていないように自分は捉えている。
それはシンプルに、目を瞑って撃ち放たれた銃弾の行き先まで責任を負わない自由。
主人公であるヘンリー・クランプ坊やの
『書物に目を通しては、神の名が軽々しく触れられているたびに、念入りに塗り潰した』
という場面。
自らの意に沿わぬ神の登場は、名前ごと塗りつぶさないと気が済まないという、歪んだ独善が生む身勝手さ。本当は神なんて「全部関係ない」ことが表れているようだ。
自分はこの「全部関係ない」ということを、ゴーリーの『敬虔な幼子』から読み取って、ひとつ自分の引き出しにしまっては、たまに取り出して眺めている。

宮崎吾朗監督作『ゲド戦記』について、どう感想を持ったか?
という話をすると、大抵の人が「ひどい」と返してくる。ある人からは「『ゲド戦記』を観終わって映画館から出てくる人たちの顔が一様に皆死んでいた、あれは「つまらなさというテロ」だ」などとも聞いて、笑ってしまったことがあった。自身がこれは面白くないと決めると、映画館を出てきたお客さんたちの、(このあと恋人とどう過ごすか…)(夕飯の材料買い忘れた…)(トイレ行きたい…)なんて、おおよそ映画とまるで関係のないことを考えた末に表面化した少々神妙な面持ちも「最悪な映画を見た」という感想への共感に替えられてしまうことがある。
本当は、「全部関係ない」はずなのだ。

自分が子供の頃から比べて、レビューという形で評価が明文化されるようになった、その情報をもとにして得をすることもたまにある。
しかし、実際は「全部関係ない」はずなのだ。

人それぞれが抱く、何かに対する感情は全部関係ない。評価社会に身を置きつつ、割りきれない判断を下されることがあっても、全部関係ない。
ゲド戦記』の小説原作は素晴らしい、好きな小説だ。同様に映画の『ゲド戦記』も好きだった。「面白かった」と言って気持ちよく外へ出た。前評判、後評判、それを見たからとしてなんとするのか、「面白かったよ!」と、つまらなかったと言う人と喧嘩する必要も全くない。
ヘンリー・クランプ坊やは急に訪れた自らの運命を悲しんだり、神を憎んだりは、きっとしない。彼の好みの基準で、彼がしたかった範囲の神の信じ方をすることは、幸せなことだったのだと解釈している。
自分が好きでたまらないもの、バカにされたら腹のたつもの、それが本質、自分にすら全部関係なかったら…一瞬考えて、寂しくなるけど、そこを抜けると少し楽になる。ただただ好きであること、どうせ関係ない、好きであることだけ、信じたい想いだけに帰結していく。

まあなんでもいいかと、そう思えてくる。なんでもいいかと思うこの感情ですら、実に全部が関係ない。

終わってしまった漫画をおもうことについて

週刊ヤングジャンプで連載していた『東京喰種:re』の単行本完結巻が出た。今回の記事に、それがどんな漫画かという点はあまり関係がない。終わってしまった漫画についてではなく、終わってしまった漫画をおもうことについて。

僕には好きになった漫画に対して「最近面白くなかったけどまた盛り返してきた」といった、変化している【面白さの波】を感じることがまずない。一度「好き」と頭が決めたら、極端な話「面白くない」と感じることがない。
それは好きになった作品と、その作品を好きになった自らの感覚を信頼していると言えばきれいだが、好きになった漫画へわく愛着がただただ半端なくて、あとは単純に漫画音痴なんだと思う。

巻数が少ない頃は(面白いよねえ!⇔だよね!)といった、想いを共有できる人が結構いたが、巻数が増えるにつれ、共有できる人が減っていく。漫画の終盤にはもう周りに自分と同じ温度で同じ漫画を読んでいる人がいなくなる。
連載が長引けば、その時間の分だけ新たな才能が生まれ、素晴らしい漫画が話題と共に読者をさらっていき、アンテナが高く立っている人ほど、話題作への飛び付きがはやく、イマイチな展開をだらだら続ける漫画への見切りも早い。
読者も色々と人生が忙しい、読める漫画の数には限界がある。
時間と共に下がる温度は不可抗力的な部分があると思う。
ちなみに今回完結を迎えた漫画が盛り下がって終わったとか、人気が細ったとか、そういうことでは決してない。あくまで、僕の周りという極めて狭い世界の話である。

終わってしまった漫画をおもう。
クライマックスに向かって高まる筆圧を感じるたびに胸が熱くなり、続きを読みたいのだけど、段々残りが減っていくページをめくるのがはばかれた。ページをとつとつと噛みしめるように読んだ。
今回完結を迎えた漫画も、まさにそういう漫画だった。

少し話は逸れるが、僕は好きな漫画のアニメも実写映画も、見ない。
好きな声優さん、俳優さんがいないわけではないが、僕の好きな漫画の登場人物の声は僕の頭の中でのみ完成形で存在した。登場人物を友人のように感じ、物語がリアルな人生の一部に同化する。好きな漫画は、不可侵。
こういう人きっと僕以外にも沢山いるはず、と勝手に信じている。

終わってしまった漫画をおもう。
好きな漫画が連載されている間は、言っては青春なのだ。好きな漫画が完結すると、ひとつの青春が終わる。
好きな漫画と出会うたびにどはまりして、また次の青春が始まる。だから僕の青春は何度も来て、何度も終わる。
幾つ歳を取っても、また何かしらその時好きな漫画で何十回目かの青春の中にいる。
好きな漫画が終わるたび、漫画のことをまた好きになる。

言わなくてもいいことの主人公について

言わなくてもいいことが、段々ふえてきて、簡単に口を開くべきではない、ということに替わってきている。
がんじがらめというには遠く、緩やかな縛りではあるが、油断するとついほころんでうっかりこぼしてしまい、それはかとなく「言わなくてもいいことの主人公」だった誰かを傷つけてしまう。言わなくてもいいことはそもそも知らなくてもいいことでもあって、知らなくてもいいことは知りたくなかったことでもあった。
誰かの秘密や、物事の裏話は、耳にするときなんやかんや結構楽しい。酒が入っていると尚更だ。
しかしそれが言わなくてもいいことであったとき、耳にした瞬間から荷物になっているかもしれない。どこかで「言わなくてもいいことの主人公」と相まみえた時、その荷物(=予備知識)がどのように展開するかは、荷物を受け取った時の感じ方と、荷物の保管の仕方次第なのだ。

隠したはずの荷物の一部がガランと落ちて、主人公が「あ…それは」となった時。
三者に渡してしまった荷物が、回り回って主人公に届いてしまった時。

荷物はいつの間にか爆弾になっていたかのように感じるが、実は最初から爆弾だったんだろう。言わなくもいいことは、言ってはいけないことなのだと思う。言ってもあまり差しつかえないものは、数%差しつかえるのだ。

どんなに信頼する友人にも、愛する恋人にも、伴侶にも、言わなくてもいいことがなにかひとつはあって、彼らを愛するのであればやはりそれは言わなくていいのだろう。
そう信じてやまないのであるが、インターネットには、言わなくてもいいことが四六時中飛び交っている。
「愛なき時代に生きてるわけじゃない、強くなりたい、やさしくなりたい」という歌詞が昔流行った曲にあった。 愛がないわけでもない時代に、言わなくてもいいことを言わなくていい強さとやさしさが必要なくらいでは、愛はない時代なのだなと思ってしまう。
言わなくてもいいことの主人公に、いつだって自分もなりえるのに。