育児日記だと思う

保育の世界では「おしっことうんちは子どもが自分自身でできる、初めての親へのプレゼントである」と言われているらしい。
トイレトレーニングにおける何度もの失敗と、待望の初回の成功で涙腺を緩ましてきた親御さんたちには、きっとこれが決して大袈裟でないことがわかると思う。
初めてのトイレでのうんちに対峙した時の激闘、終わったあと長男と僕は、アポロ対ロッキーの15Round終了ゴング後の混沌のさなか抱き合い、アイラブユーと叫び続けるエイドリアンとロッキーみたいだった。

今、自らが普通とする生活とは、いずれもありとあらゆる初めてのことを成し遂げてモノにしてきた、もともとできなかったことの集合体だ。
うんちも含め、一日を構成する一挙一動の行為ひとつひとつが、ゼロから習得してきたことだなんて、信じられないほど膨大な情報じゃなかろうか。
朝起きてから夜寝るまでの、全ての行為を文字に起こしたとしたら一体何文字になるか、おそらく気が遠くなるような工程数だ。

日々成長していく自分の子供をみていると、当たり前のことなのだけど、本当に人はゼロベースなんだということに気付ける。
生きていくための最低限のことすら、それが最低限であることすら知らずに、できるようになっていく過程と有り様はまさに記憶そのものが人間になっていくようでもある。
僕はたまたま彼らの親にならせてもらい、彼らに生まれてはじめてを経験させてあげさせてもらい、僭越ながらまるで神様にでもなったかのように全知全能役を演じている。
すごいことを目の当たりにさせてもらっている。僕が決めたサイテイゲンを彼らにとってのヒトトシテの第一歩としてデザインしているわけだ。

この「はじめて」という不可逆的な一筆目に想いを馳せ、「はじめて」に二度目はないことの馬鹿みたいな尊さに胸ぐらをつかまれる。

はじめて口にした美味しいものをもう一度食べたいと自覚することや、最初に流した涙をそれがなんのための涙であるか自覚することは、風がどこから発生するのかだったり、振り始めた雨の一滴目がどこに降り落ちたのかだったりを知ることに等しく、奇跡みたいな領域だ。

はじめてを知ったときに、表裏一体であるおしまいの存在にはなかなか気づけない幼い息子たちも、まさか初めてを経て終わりがあるなんて想像だにしないだろう。
いつか知ることになるおしまいの存在はきっと眠れないくらい怖いかもしれないが、怖気づきながら僕もまだまだ、はじめてを重ねていることを伝えつつ、なんて言ってやれるだろうか。

これから重ねていくはじめては、きっとクソみたいなことも数え切れないほどあるということ。
でもきみたちが幼い頃見せてくれたはじめてのうんちも含めて、素敵なはじめても沢山あり、それをわけてもらった僕が何度嬉し涙をこぼしたかということ。

あわせてよくばりに、はじめてに二度目はないことの馬鹿みたいな尊さについて伝えられたらいいなと、

昨日長男がはじめてトイレでした立派なうんちのにおいを反芻しながら、ぼんやり思う